信玄堤(しんげんつづみ)

富士川上流にある信玄堤(しんげんつづみ)は、武田信玄が甲府盆地を水害から守るために築いたと伝えられている。富士川は、南アルプスを水源として駿河湾まで流れる長さ128kmの急流河川であることから古くから水害を引き起こしていた。武田信玄の甲斐国は、内陸部の甲府盆地にあり、富士川の上流である釜無川と笛吹川の氾濫に悩まされていた。特に釜無川(かまなしがわ)は支流の御勅使川(みだいがわ)とともに盛んに流路を変えて盆地西部において水害をもたらしていた。

 

甲府盆地の平地部は、いくつかの河川がつくった複合扇状地から成っており、その中でも釜無川 がつくった部分が大きな面積を占めている。扇状地を流れる河川は、全くの自然の状態では扇状地面を奔放に流れる。釜無川と御勅使川が扇状地を流れ、この2つの川が合流する地域では、自然のままでは洪水の危険性が非常に高い。

 

信玄堤の工事は、天文11年(1542年)の釜無川、御勅使川の大氾濫が契機となって始められたとされている。古文書に、永禄3年(1560年)棟別役という諸役や税を免除される代わりに川除への集団移住(竜王河原宿)を促し堤防の管理に当たらせたと記録されているところから、工事が概ね完成したと推定される。約20年の歳月を要した大工事であった。堤防築造と御勅使川治水により洪水被害は緩和され、盆地西部や竜王では江戸時代初期に用水路が開削され新田開発が進み、安定した農業生産ができるようになったとされている。

 

古来より「河を治める者が国を治める」という言葉がある。信玄は、無敵の騎馬隊、甲州流軍学などでよく知られているが、長きにわたる治水工事にも取り組んだことから大局を見る優れた人物であったことがわかる。信玄の治水技術は優れていたので、他国に伝わり、江戸時代には「甲州流川除法」と称され我が国における治水技術の始祖として讃えられている。

 

信玄堤に関わる釜無川と御勅使川の治水工事のポイント:
釜無川へ合流してくる御勅使川の激しい流れを、信玄堤のすぐ上流にある「高岩」と呼ばれる自然の崖にぶつけて御勅使川の流れを変えるところにある。その治水工事のイメージを以下に示す。

           信玄堤に関わる治水工事のイメージ
           信玄堤に関わる治水工事のイメージ

 

この治水工事は、8つの要素から構成されている。
ⓐ石積出し  御勅使川の扇頂部に巨大な「石積出し」を構築。乱流を防止し、

       御勅使川の河道を安定させる。
ⓑ将棋頭     「将棋頭」ⓑ,ⓒで流れを分流させて勢いを弱める。
ⓒ将棋頭                 同上
ⓓ開削         ⓓ地点を開削し、ⓑ,ⓒで分流された流れを釜無川へ導く。
ⓔ十六石      ⓔ地点に十六の巨石を置き釜無川との合流を調整する。
ⓕ高岩         釜無川の主流を誘導し,御勅使川の流れと共に「高岩」へ

                  突き当て、その勢いを弱める。
ⓖ信玄堤     「高岩」の下流に、信玄堤を構築する。弱まった流れを

       「信玄堤」がしっかり受け止める。洪水が発生しないよう 

                  に「出し」を前面に置き、二重の備えとする。

      「出し」には「一の出し」と「二の出し」があった。
ⓗ堤 開口部  堤の開口部をつくり、万一堤防が決壊した場合は氾濫した水を

                  川に戻す。

 

         参考文献:富士川の治水を見る(国土交通省 関東地方整備局作成)

        土木紀行 信玄堤(建設マネジメント技術2010年6月号)

 

信玄堤から見る南アルプス
信玄堤から見る南アルプス
「高岩」の方向を見る
「高岩」の方向を見る
信玄堤 「一の出し」
信玄堤 「一の出し」
「一の出し」に続く崖
「一の出し」に続く崖
「高岩」「一の出し」の方向を見る
「高岩」「一の出し」の方向を見る
「高岩」「一の出し」の方向を見る(2)
「高岩」「一の出し」の方向を見る(2)

「聖牛」

河川の水勢を緩和するために考えられた日本で有名な工法のひとつ。

戦国時代のこの甲州が発祥の地と伝えられている。

三角の形をしているのでこの名が付いたとされる。

信玄堤
信玄堤
信玄堤より南を見る
信玄堤より南を見る
信玄堤の南側
信玄堤の南側