五稜郭

五稜郭は、嘉永6年(1853年)アメリカ艦隊の来航(黒船来航)がきっかけとなりつくられた。徳川幕府はアメリカの開国要求に屈して、安政元年(1854年)3月 日米和親条約を締結し、箱館・下田の両港の開港、薪水・食糧・石炭の供給などを認めたのである。(明治時代になって箱館は「函館」と改められたとされている。)

 

幕府は箱館を治めるために箱館奉行を設置し、産業育成や開拓を進めた。そして同時に、箱館の防備強化のため、蘭学者の武田斐三郎に新しい要塞の構築を命じたのである。武田斐三郎は、ヨーロッパの城郭都市をモデルとする要塞を考案し、約7年の歳月を費やして五稜郭が築城された。

 

アメリカの要求に屈した幕府に対する不満は倒幕運動へ発展し、日本を二分する戊辰戦争が起こった。大政奉還・江戸城明け渡しなどで力を失った旧幕府の榎本武揚は陸軍諸隊を収容した艦隊を率いて蝦夷地へ渡り、五稜郭を占拠した。そして、明治元年(1868年)12月仮の政権を樹立し、徳川家臣による蝦夷地開発の許可を新政府に求めた。明治2年(1869年)5月 新政府は征討軍を派遣して旧幕府脱走軍を攻撃し、箱館戦争が勃発した。旧幕府軍は、圧倒的な戦力の新政府軍に対して奮戦したが衆寡敵せず降伏した。

 

五稜郭は、堀で囲まれた五芒星型の堡塁と半月堡(馬堡塁)で構成されている。堡塁には本塁(土塁)が築かれ、内側に奉行所などの建物が建てられた。土塁の高さは7.5m、幅は土台部分で30m、上部の塁道は8mあり砲台として使用された。そして、郭内への入り口の奥に幅5.5mの見隠堡が、堀の内側には高さ2mの低塁が、郭内には高さ1mの長斜坂が築かれ、郭内の入口3か所の両側に幅4mの空堀が構築された。当初は、堀と土塁すべてに石垣を築く計画であったが、費用がかさみ石の切り出しに時間がかかることから、石垣は堀と半月堡および郭内入口周辺に築かれた。 

 

四稜郭

四稜郭は、明治2年(1869年)箱館戦争のときに旧幕府軍が築城した堡塁である。五稜郭に立てこもる旧幕府軍は新政府軍の攻撃に備えて各地に防御陣地を築いた。五稜郭の背後を固めるため、五稜郭の北東直線3キロ離れた丘陵に洋式洋の堡塁を築いたのが四稜郭である。そして五稜郭と四稜郭が互いに孤立しないよう、その間に権現台場が構築された。(現在は鳥居しか残っていない。)

 

大鳥圭介あるいはブリュネ大尉が築城を指揮し、旧幕府兵卒200人および近隣の住民100人が徴用され、昼夜兼行の突貫工事で築かれたとされている。急場しのぎの堡塁で強固でなく、籠城するには手狭で井戸などの設備もなかった。新政府軍が五稜郭と四稜郭を同じ日に攻撃し、中間の権現台場を落としたため、旧幕府軍は孤立を恐れて四稜郭を撤退した。

 

四稜郭は土塁で構築され、その規模は東西約100m、南北70m、幅5.4m、高さ3mである。土塁の外側には幅2.7m、深さ0.9mの空堀が造られた。土塁全体の形が4つの突起をもつことにより四稜郭と呼ばれている。

 

五稜郭

上から見る五稜郭  手前に半月堡、向う側に五芒星の堡塁が見える
上から見る五稜郭  手前に半月堡、向う側に五芒星の堡塁が見える
南側郭内入口の堀と石垣
南側郭内入口の堀と石垣
南側郭内入口 石垣
南側郭内入口 石垣
半月堡の石垣
半月堡の石垣
半月堡の石垣と空堀
半月堡の石垣と空堀
半月堡の堀と石垣
半月堡の堀と石垣
南側郭内入口 右側の石垣
南側郭内入口 右側の石垣
南側郭内入口 左側の石垣
南側郭内入口 左側の石垣
南側郭内入口 右側の空堀
南側郭内入口 右側の空堀
空堀1
空堀1
空堀2
空堀2
郭内
郭内

四稜郭

四稜郭案内図 (函館市教育委員会作成)
四稜郭案内図 (函館市教育委員会作成)
郭内より入口(南側)を見る
郭内より入口(南側)を見る
郭内西側
郭内西側
郭内南側 左向うに五稜郭のあるタワー、正面に函館山が見える
郭内南側 左向うに五稜郭のあるタワー、正面に函館山が見える
東側から郭内を見る
東側から郭内を見る
西側の空堀
西側の空堀