甲府城

甲府城は武田氏の歴史の表舞台には登場しない城である。

 

戦国時代には、守護武田氏・武田信虎期に甲府が開設され、躑躅ヶ崎(つつじがさき)館を中心とする武田城下町が整備された。後に甲府城が築かれる一条小山は、その武田城下町の南端に位置している。武田信虎・晴信(信玄)は戦国大名となり、信濃・駿河・西上野へと領地を拡大し、甲府躑躅ヶ崎館が、勝頼にいたるまで、武田氏の領地経営の中心地であった。

 

天正3年(1575年)長篠の戦いにおいて織田・徳川の連合軍に敗北した勝頼は、織田軍の侵攻に備えて、甲府盆地西部に新たに新府城を築城し府中移転を試みた。しかし、天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍に侵攻により武田氏は滅亡し、府中移転は途上に終わった。

 

甲府城の城主は徳川家康とする説がある。天正11年(1583年)家康は家臣に一条小山に築城を命じ、野面積(穴太衆積)の技術をもつ石工衆を集めさせた。穴太衆積は、戦国期の甲斐や武田領国、家康の東国五ヵ国においては、初めて甲府城築城において用いられたものである。

 

甲府城の築城は、次の豊臣大名時代に本格化した。天正18年(1590年)羽柴秀勝が、次に加藤光泰が、そして次に浅野長政・幸長が築城を進めた。しかし秀吉の朝鮮出兵があり築城の継続が困難となった。江戸時代に入ってから徳川家が甲斐を領するようになり、宝永2年(1705年)柳沢吉保が城主となってから子の吉里にいたるまでの約20年間、城郭の整備・石垣の改修・城下町の整備が行われ、甲斐国は大いに発展した。

 

甲府城は、甲府盆地北部、現在の甲府市内中心部の一条小山に築城された平山城である。甲府城は、内堀・二ノ堀・三ノ堀で各領域が構成され、それぞれ内城部分・内郭部分・町人地を囲郭している。現在の甲府城には、豊臣時代に築かれた野面積(穴太衆積)が多く残っている。

 

 

南側堀 遊亀橋 左側
南側堀 遊亀橋 左側
南側堀 遊亀橋 右側
南側堀 遊亀橋 右側
南側から見る天守台
南側から見る天守台
天守曲輪の石垣1
天守曲輪の石垣1
天守曲輪の石垣2
天守曲輪の石垣2
天守曲輪の石垣3
天守曲輪の石垣3
坂下門の石垣1
坂下門の石垣1
坂下門の石垣2
坂下門の石垣2
本丸から見る天守台
本丸から見る天守台
東側から見る天守台下の石垣
東側から見る天守台下の石垣
東側から見る天守台の石垣
東側から見る天守台の石垣
北側から見る稲荷曲輪の石垣
北側から見る稲荷曲輪の石垣
稲荷櫓
稲荷櫓
数寄屋曲輪の石垣
数寄屋曲輪の石垣