安土城

安土城は、織田信長が天正4年(1576年)から約3年の歳月をかけて築城した。織田信長が本能寺の変で倒れた後、安土城は焼失し現在は石垣だけが残っている。この城を築城した目的は、岐阜城より京に近く、琵琶湖の水運も活用でき、さらに北陸街道から京への要衝に位置していたことから、越前・加賀の一向一揆に備え、越後の上杉謙信を警戒するためと推定される。

 

ここで培われた築城技術が、安土桃山時代から江戸初期にかけて築城された近世城郭の範となった。この石垣を構築した石垣職人集団は、その後全国的な城の石垣普請に従事し広がっていった。その集団の1つが穴太衆である。

 

安土城は標高199mの安土山一帯に築かれた山城である。現在は四方とも干拓により陸地となっているが、当時は琵琶湖の内湖(伊庭内湖・常楽湖)に囲まれ南方のみが開けた地形であった。

 

城焼失後人の手があまり入らない状態であったため、当時の石垣の状態がそのまま残っているところが多い。野面積みが多く見受けられ、坂本にある穴太衆積み石垣と似た点がある。

 

安土城の石垣に使われている石は湖東流紋岩と呼ばれ、滋賀県の湖東地方で見られる石である。湖東流紋岩は花崗岩とよく似ているが、石屋さんによると「花崗岩の灯篭は千年もつが、湖東流紋岩は優に二千年はもつ」という強靭なもののようである。風化したその石は白く変色しており、石垣などは全体的に白っぽく見えると言われている。東北、関東、関西の幾つかの城の石垣を見た後、安土城の石垣を見ると見ごたえがあり、石垣積みのルーツであることを感じる。

 

安土城跡のある安土山一帯を南より見る
安土城跡のある安土山一帯を南より見る
安土城跡入口
安土城跡入口
安土城跡入口近くの石垣
安土城跡入口近くの石垣
大手道の階段と石垣
大手道の階段と石垣
大手道の石垣
大手道の石垣
黒金門跡の石垣
黒金門跡の石垣
黒金門跡を入ったところの石垣
黒金門跡を入ったところの石垣
本丸跡の石垣 北西側
本丸跡の石垣 北西側
二の丸跡から見る本丸入口近くの石垣
二の丸跡から見る本丸入口近くの石垣
本丸近くの石垣
本丸近くの石垣
安土城本丸近くから見る西の湖 琵琶湖に通じている
安土城本丸近くから見る西の湖 琵琶湖に通じている