野田城

野田城は、武田信玄が徳川を攻めた西上作戦の最終段階の戦いに出てくる城である。

 

野田城は、永正5年(1508年)に築城されたと伝えらえる。菅沼定則・菅沼定村・菅沼定盈などがここを居城とした。

元亀4年(1573年)1月 上洛を目指す武田信玄は、三河に侵入して菅沼定盈が守る野田城を攻撃した。武田軍3万人の大軍に対し、野田城を守る菅沼定盈の軍勢は500名程度の劣勢であったとされる。

 

野田城は小城であるが、自然の地形を利用した築城により、攻め口が限られ大軍を相手にするには有利な構造となっていた。武田軍は力攻めを行わず、甲斐の金脈人足を使って二の丸と本丸の間を下から切り崩した。城兵は二の丸と三の丸で防御することができなくなり本丸に移った。武田軍は、さらに、崩れたところから本丸の井戸の下まで堀って地下の水脈を切り、城内の水を枯らしてしまった。

野田城は1か月間持ちこたえたが、ついに、城兵の助命を条件に開城降伏し、定盈は武田軍の捕虜となった。

 

野田城が落ちたことで徳川家の三河防衛網が崩れたが、武田信玄の病状が悪化したため、武田軍は侵攻を止めて甲斐へ引き返した。その帰りの道中、信玄は亡くなったとされている。

 

野田城は、南北に長く、北より三の丸、二の丸、本丸と続く連鎖式山城であった。この山城は細長く突き出た尾根の上に造られ、本丸が三の丸、二の丸より低い「はしご曲輪」呼ばれる形態になっていた。東西両側は谷になっており、当時は自然の川をせき止めて堀となっていた。実際に、二の丸と本丸の横から南東側の侍屋敷の辺りを見てみると、東西両側は崖になっており要害であったことがわかる。

 

左側が二の丸、右側が本丸
左側が二の丸、右側が本丸
二の丸と本丸の間の空堀(北東側)
二の丸と本丸の間の空堀(北東側)
二の丸と本丸の間の空堀(南西側)
二の丸と本丸の間の空堀(南西側)
二の丸南西側の崖下1
二の丸南西側の崖下1
二の丸南西側の崖下2
二の丸南西側の崖下2
二の丸から本丸への道
二の丸から本丸への道
本丸跡
本丸跡
本丸跡の稲荷神社
本丸跡の稲荷神社