千早城

千早城は、元弘2年(1332年)楠木正成が築城した山城である。楠木正成は南北朝時代の武将、大阪千早赤坂村の楠木一族(地方豪族)の1人。御醍醐天皇の命に従い挙兵し、鎌倉幕府を崩壊に導き「建武中興」に大きな成果を上げた。

 

楠木正成は、天然の要害を活かした下赤坂城、上赤坂城、千早城の3城を中心にした城塞群で、武装した幕府の大軍と対峙し、味方約1000人の兵力で、数十万の幕府軍を相手に善戦した。千早城は堅固な山城で、正成がわら人形や大石などの奇策を用いて籠城戦を戦い抜き、最終的に幕府軍を撤退させたことで有名である。

 

千早城は、標高約660mの山に築かれ、城の南(妙見谷)、北(風呂谷)、西(大手口:現在の階段入口)の3方は、急斜面となっており、東だけが尾根伝いに金剛山に通じる天然の要害である。城の南には、千早谷を隔てて北山砦があり、南には妙見谷を隔てて妙見砦あり、四方に堡塁が散在し、自然の地形を利用した連絡路があり、千早城を中心に城塞群が形成されていた。

 

上赤坂城も同様に金剛山に通じることができた。千早城は、上赤坂城のように平野部に眺望がきかず、山間に隠れた存在の山城となっていた。

 

 

千早城 西側登山口
千早城 西側登山口
四ノ丸入口
四ノ丸入口
四ノ丸から三ノ丸への通路
四ノ丸から三ノ丸への通路
金剛山の方向を見る
金剛山の方向を見る
険しい斜面(東側)
険しい斜面(東側)
三ノ丸から千早神社(二の丸)を見る
三ノ丸から千早神社(二の丸)を見る
四ノ丸と向こうに見える金剛山系
四ノ丸と向こうに見える金剛山系
西側に見える山々
西側に見える山々
西側登山口 2基の石柱のうちの右側
西側登山口 2基の石柱のうちの右側
西側登山口 2基の石柱の説明
西側登山口 2基の石柱の説明
湊川神社に残る大楠公御碑賛
湊川神社に残る大楠公御碑賛
湊川神社に残る大楠公御碑賛 日本語文
湊川神社に残る大楠公御碑賛 日本語文