甲府城に関する補足

 本サイトについては、現地調査などをした後、資料と写真をまとめてサイトアップし、その際、サイト内容相互の関連はみていませんでした。そして、多くの城や石垣の記事をアップした後、時代として全体の流れや関連性があることに気づきました。
 甲府城の記載について疑問がわきましたので、徳川家康の居城であった浜松城および豊臣秀吉が築いた石垣山一夜城および徳川家康の動きとの関連もみてレビューした結果を以下に記載します。

 

1.浜松城
 浜松城は、徳川家康が17年間、今川・武田・織田などの強大な戦国大名に囲まれた中で戦い、生き延びて天下盗りの夢をつかんだ城とされている。元亀3年(1573年)、徳川家康は浜松城から打って出て、三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗した。
 そして、浜松城の拡張・改修は天正10年(1582年)頃、完了したと言われている。浜松城は、野面積みの石垣で知られており、横長の石を水平に積む「布積み崩し」のようなところも見られる。
「浜松城は、元亀元年(1570年)家康が構築したものとされる(「寛永諸家系図伝」)。石垣のうち、天守台の遺構が旧態を良く残している。野面石の角石は、おおむね長さを一定に揃え、算木状にする。したがって、美しい矩方が構成される。角脇石も、角石にみあう石材を配石している。また、石垣全体は完成した穴太衆積みである。」(「石垣普請」P208より)
 
2.石垣山一夜城
 石垣山一夜城は、天正18年(1590年)豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めるために、約80日間、延べ4万人を動員して築いたとされている。
 この城の石垣は、近江の穴太衆による野面積みと言われている。実際に見ると、大小の石をうまく組み合わせた穴太衆積み(古式)であることがわかる。

 

3.甲府城
 徳川家康が家臣に一条小山に築城を命じ、野面積(穴太衆積)の技術をもつ石工衆を集めさせたとされている。これが天正11年(1583年)頃とみなされ、徳川家康築城説のもとになっている。
 徳川家康の居城である浜松城が、天正10年(1582年)頃、拡張・改修が完了したとされていることから、その経験をもとに、天正11年(1583年)頃、甲府城の石垣のベースを構築した可能性はあるが、本格的な穴太衆積みによる築城にいたった可能性は小さい。なぜなら、武田勝頼が天正9年(1581年)に新府城を築城し、天正10年(1582年)織田・徳川軍に攻められ敗北し天目山で自害したとされている。武田氏は滅びとはいえ、天正11年(1583年)頃は、徳川家康の力は安定していない。天正10年(1582年)に本能寺の変があり、織田信長は没した。残る強大な敵は豊臣秀吉であった。天正12年(1584年)に徳川家康は小牧・長久手の豊臣秀吉との戦いで撤退、天正18年(1590年)に小田原攻めがある。当時の戦国時代の勝敗は不透明であることから、天正11年頃に、家康が甲府城築城のプライオリティを上げた可能性は小さい。


 「穴太衆積みは、戦国期の甲斐や武田領国、家康の東国五ヵ国においては、初めて甲府城築城において用いられたものである」という説がある。東国五ヵ国とは、駿河・遠江(静岡県)、三河(愛知県)、信濃(長野県)、甲斐(山梨県)を指す。①浜松城(三河)を穴太衆積みと判断し、②甲府城の築城(穴太衆積みを含む)には金と時間がかかることから、本格化したのは次の豊臣大名時代または江戸時代以降と推定すると、「穴太衆積みは、戦国期の甲斐や武田領国、家康の東国五ヵ国においては、初めて甲府城築城において用いられたものである」とは言い難い。また、天正18年(1590年)、穴太衆積みによる石垣山一夜城が築かれているが、これは北条氏が領する相模(小田原)であり、家康の東国五ヵ国ではないと判断される。


 「甲斐国史」によれば、甲府城には天正18年(1590年)羽柴秀勝が入封し、次に加藤光泰が城主となり「修築乃功」を起こしたという。そして次に文禄2年(1593年)~慶長5年(1600年)にかけて浅野長政・幸長父子が築城を継続したが、この頃は秀吉の朝鮮出兵が行われ、甲府城の築城は困難になっている。江戸時代(1603年~)に入ってからは、徳川家が甲斐を領するようになり、宝永2年(1705年)柳沢吉保が城主となってから子の吉里にいたるまでの約20年間、城郭の整備・石垣の改修・城下町の整備が行われ、甲斐国は大いに発展したとされている。


 現在の甲府城の石垣には様々な年代のものが見られる。
 「鉄御門石垣ならびに天守台石垣は、ほぼ矩方のみによっている。石垣全体にバランスよく配された巨石と、それによって構築された穴太衆積み技法であろう。おそらく、天正末期から慶長初期にかけての幅のなかで検討すべき遺構であろう。」(「石垣普請」P197-198)
 サイト「甲府城」の写真「東側から見る天守台下の石垣」には、間知石積みのような積み方も見られる。これは、元和年間(1615年~)から寛永年間(1624年~)以降に構築されたものである可能性が強い。


備考:
①穴太衆積み(古式)
 「野面石(一部に割石も使う)の大石、小石を前後左右にバランスよく配石した石垣を言う。天正年間には成立していた。文禄年間(1592年~)、慶長年間(1596年~)を通して一般的に用いられている。」 

(「石垣普請」P174より)
②間知石(けんちいし)積み
 「石材は、ある程度の規格性をもつ加工石材であるが、一方では、本丁場(作業場)で現場合わせを行うこともあった。元和年間(1615年~)から始まり、慶安(1648年~)~文化(1804年~)・文政(1818年~)年間にかけて発展を遂げる・この技法は、民間での使用とあいまって主流となり、幕末期まで継承される。」 

(「石垣普請」P174より)

 

主な参考文献:
 「石垣普請」北垣聡一郎著 1987年法政大学出版局発行
 「穴太の石積」平野隆彰著 2007年有限会社あうん社発行

 

以上