備中松山城
仁治元年(1240年)、秋葉重信が備中有漢郷(現・岡山県高梁市有漢町)の地頭となり大松山に最初の城を築いたのが最初。時代と共に城主は変遷した。戦国時代、三村元親の時代には大松山・小松山を範囲とする一大城塞となった。
備中松山城は臥牛山(標高480m)の子松山の山頂中心に築かれた近世城郭であり、日本三大山城の1つ。石垣の一部は現在も残っている。
江戸時代には、城主水谷氏3代(1642年-1693年)が松山城の改築、城下町の整備に尽力した。その後嗣子なく水谷家は断絶し、赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり、忠臣蔵で有名な家老・大石良雄が城番となった。 松山藩は慶応4年(1868年)戊辰戦争で朝敵とされたが、執政であった陽明学者山田方谷の決断で無血開城した。