坂本と穴太衆積み
土木史上において、石を積むことは大きな意味をもっている。狭く傾斜地の多い日本では、何をするにも土木技術が必要であり、どこにでもある石は手近な土木の資材であった。人々は、雨・風・雪・川・波などの自然の猛威に対して石を積むことで立ち向かったのである。
比叡山の麓に「門前町坂本」という場所がある。その坂本の大字(穴太)一帯に古来より居住し、比叡山の土木営繕の御用をつとめていた穴太衆がいた。その技術の蓄積が、戦国時代、安土桃山時代に築城された多くの城や堀の城郭石垣【穴太衆積み】のルーツになっている。
穴太衆積みによる石垣は、一つひとつの石の特性や強みを活かしてうまく組み合わせているため、400年以上経っても残っているところが多い。穴太衆積みを修練すると「石の声が聴こえる」と言われている。
城郭石垣の歴史をみると、天正以前から天正(1573年~)・文禄(1592年~)では、穴太衆積みの低石垣(野面)が多く、慶長(1597年~)・元和(1615年~)では、穴太衆積みを中心に間知石積みと高石垣が始まっている。そして、寛永(1624年~)以降は、間知石(*)積みが中心にした規格材の使用が増加している。
(*)間知石(けんちいし):石材を小割りにして規格化したもの、それに近いもの。
天正以前から天正・文禄・慶長・元和の時代に、強い地盤に築かれた石垣には、今日まで崩落せずに残っているところが多い。それに比べて、寛永以後に築かれた石垣には崩落事例が多い傾向がある。
坂本の日吉大社、滋賀院門跡、里坊には、自然のままの石(野面石)を用いた穴太衆積みの石垣が多く見られる。
日吉大社
滋賀院門跡
里坊
近江八幡 八幡堀
豊臣秀次が、八幡山城の防備と琵琶湖上の交通のため整備
膳所城の湖岸の残存石垣
大津の膳所城は日本三大湖城の1つである
本州と異なる城と石垣
沖縄 座喜味城址
標高120mの名護層からなる大地を石灰岩の切石積みで取り囲んでいる
15世紀の初頭築城家として名高い護佐丸が築いたとされている
沖縄 座喜味城址
アーチの門