大阪城
大阪城は、豊臣秀吉が築城する前は、浄土真宗の門徒が他の権力からの政治的、経済的自立を目指す一大軍事集団となり石山本願寺と称される要害を構築していたところだった。織田信長が、天正8年(1580年)10年の歳月をかけた石山本願寺との戦いに勝利して、80年を超す歴史をもった石山本願寺は焼失した。
大坂城の場所は、上町台地の北端に位置し、かつてはこの地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝であった。信長はこれを将来の拠点として天下統一を夢見ていたことが記録に残っている。
本能寺の変、山崎の戦いの後、豊臣秀吉が大阪城を手に入れ、天正11年(1583年)から築城を開始した。大阪城は、二重の堀に囲まれた巨大な輪郭式の城郭となったが、秀吉は安心せず、さらに大阪の周囲に惣構堀(そうがまえぼり)を築いた。足かけ17年(大きく4期の工事)の工事により、大阪城は、三重ないし四重の堀に囲まれた堅固な城となったのだが、徳川家康の謀略にかかり、慶長20年(1615年)大阪夏の陣で焼け落ちた。
現在残っている城郭は江戸時代に再築されたものである。江戸時代に入り、徳川幕府により、秀吉時代の本丸は地下に埋め込まれ、三段もの曲輪を積み重ねた複雑な構造であったものは、今日見える平坦のものに改築され、石垣は根石から置き換えられた。
大阪城の石垣は、内堀の東部では最高で水面から24m、水深5m、堀底から根石まで2-3m、合計31-32mの高さの高石垣となっている。そして、花崗岩の立派な切石が多く使われている。慶長年間(1596年~1615年)の築城ブームの中で発達した築城技術の成果が石垣に集約されている。