小田原城
小田原城は、15世紀中頃大森氏が築いた城が前身とされている。明応4年(1494年)から文亀元年(1501年)の頃、伊勢守時(後の北条早雲)が大森氏から奪い、その後拡張したのが小田原城である。早雲は終生伊豆韮山城を居城とし、息子の北条氏綱が小田原城を本城にしたとされる。
永禄4年(1561年)北条氏と敵対する越後の上杉謙信が相模に侵攻し、小田原城の戦いとなった。謙信の軍勢はおよそ10日間小田原城を包囲して攻撃した後軍勢を引いたとされている。
永禄12年(1569年)甲斐の武田信玄が関東に侵攻し、北条の小田原城を攻めた。武田軍は小田原を包囲したが北条軍が籠城を続けたことから、早々に軍を払った。
小田原城の守りが固かったことと、攻め側が軍事的示威行動が狙いであったことなどが推定される。
天正18年(1590年)豊臣秀吉が十数万とも言われる大軍を率いて、隠居北条氏政と当主氏直が率いる北条氏小田原城を攻撃した。秀吉は圧倒的な兵力・物量で取り囲むとともに、関東各地の北条氏の支城を撃破した。小田原城は3か月間の籠城戦に耐えた末、開城したのである。
小田原城の特徴は、秀吉軍に対抗するためにつくられた広大な外郭にある。八幡山から海側まで、小田原城下全体が総延長9kmの土塁と空堀で取り囲まれる構造であった。その規模は後の豊臣大阪城の総構をしのいでいたとされている。小田原城は本丸を中心に、二の丸総堀、三の丸総堀、総構堀によって三重に囲まれ、本丸西側に屏風岩曲輪、南に小峰曲輪、北に御蔵米曲輪などを設け四方の守りを固めた構造であった。
小田原城が現在のような総石垣の城になったのは、寛永9年(1632年)に始められた大改修以後である。石垣の積み方は、寛永以降に多い間知石積みであり、天正から慶長時代に盛んであった野面積みは見られない。