岡山城
「続太平記」に、応仁元年(1467年)赤松左京太夫正則と浦上美作守則宗が、備前岡山の敵城を攻め落とすという一節があるが、これが現在の岡山城かどうかは定かではない。
永禄2年(1559年)宇喜多直家が岡山の亀山城に移りこの地で急速に勢力を伸ばした。天正元年(1573年)直家は、居城を亀山城から石山城(岡山城)に入城し、城の改築と城下町の形成を行った。
その後、直家の子・宇喜多秀家が豊臣政権下で57万4千石の大領主となり、天正18年から慶長2年(1590年~1597年)の8年間、岡山城の大改修を行った。慶長5年(1600年)宇喜多秀家は西軍の主力として関ヶ原の戦いに負け八丈島に流され、小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として入城し、城下町をさらに拡大した。その後池田家が領主となった。
岡山城は標高十数メートルの丘が連なる小高い土地に築城された。当時旭川は複数の河川に分岐しており、その中央に「岡山」(柴岡山)、西に「石山」、北西に「天神山」(天満山)の3つの丘が連なっており、これを要害として、「石山」にあった石山城をベースに岡山城が築城された。
岡山城は、三段の城郭が西側に広がる平山城であり、北から東の防備が弱いため、旭川の河川を改修して天然の堀がつくられ、廓の代わりとして後楽園が築かれたとされている。