岩村城
文治元年(1185年)源頼朝の近臣加藤影廉がこの地に城を築いたのが岩村城の始まりとされる。戦国時代に入り、天正元年(1573年)武田信玄の武将秋山信友が岩村城を奪い入城。そして、天正3年織田信長が5か月間の戦闘で岩村城を陥落させた。その後、城主は、森蘭丸、森忠政、田丸具忠など目まぐるしく交替し、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後、松平家が城主となった。
岩村城は、恵那市岩村町の標高717mの城山に、自然の要害を利用して築かれている。日本国内の山城の中で最も高い場所にあり、日本三大山城の1つとなっている。この地は、尾張、美濃、信濃などに通じる要衝であり、歴史上様々な戦いの場となった。
天正年間及び慶長年間(1573年~1615年)に数次にわたって、岩村城は改築され、現在の縄張りが完成されたと言われている。中世城郭から近世城郭に修築された結果、本丸、二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪などが築かれ、丸と曲輪は石塁や自然の断崖で区画され、要所に櫓、塀、城門、井戸が構えられた。
霧の井
敵が城を急襲したときこの井戸に秘蔵の蛇骨を投げ入れると、忽ち霧が立ち込め城を隠したという伝説がある 霧ヶ城と言われるもととなった井戸
今も水は絶えることなく湧き出し、岐阜県の名水五十選に認定されている