彦根城

徳川四天王の一人である井伊直政は、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられて佐和山城に入城した。佐和山城は堅固な城であったが、古い縄張りや西軍の大将であった石田光成が居城であったことを嫌い、直政は、湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画したが、慶長7年(1602年)に没した。

 

その後井伊直継が家督を継いだが幼少であったため、直政の遺臣である木俣守勝が徳川家康の指示により、慶長8年(1603年)彦根山(現在の場所)に彦根城の築城を開始した。そして、元和8年(1622年)にすべての工事が完了した。彦根城は彦根山(標高50m)に築かれた平山城である。

 

彦根は、中山道と北国街道が合流し、水陸から京に至る東国と西国の境にあり、姉川の戦い(元亀元年:1570年)、賤ヶ岳の戦い(天正11年:1583年)、そして関ヶ原の戦い(慶長5年:1600年)など古来より多くの合戦がこの地域で行われた。

  

 

左に天秤櫓 右に天守が見える
左に天秤櫓 右に天守が見える
天秤櫓の右側 牛蒡積み(ごぼう積み)(築城当時もの)
天秤櫓の右側 牛蒡積み(ごぼう積み)(築城当時もの)
天秤櫓の右側 牛蒡積み2(ごぼう積み)(築城当時もの)
天秤櫓の右側 牛蒡積み2(ごぼう積み)(築城当時もの)

 

一口メモ:

牛蒡積み(ごぼうづみ)

野面積みの一種。胴長な石を用いて、短径面を前面に出し、長径面を奥にする積み方。粗野に見えるが堅固な石垣となる。 

落し積み

打ち込みハギなどの石を用いて、上から石を落し込むように積む方法

 

登り石垣

山の斜面を登るように築かれた石垣。日本軍が築いた倭城に見られる城郭遺構。斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれ、実戦の中でその防御効果が証明された。

 

天秤櫓の左側 落し積み(江戸後期改修)
天秤櫓の左側 落し積み(江戸後期改修)
天秤櫓の左側 落し積み2(江戸後期改修)
天秤櫓の左側 落し積み2(江戸後期改修)
三重の天守 牛蒡積みの石垣
三重の天守 牛蒡積みの石垣
本丸の石垣
本丸の石垣
太鼓門櫓の石垣
太鼓門櫓の石垣
鐘の丸の石垣
鐘の丸の石垣
大手山道の石垣
大手山道の石垣
表門参道 上の石垣
表門参道 上の石垣
登り石垣
登り石垣