日本の戦国時代とドイツから学ぶ

 城の石垣に強い興味をもつようになってから、いくつかの日本の山城、平城、平山城を見て回って感じるところがあります。

城は国の防衛のためつくられました。城郭内は一定の区域である曲輪(くるわ)に分けられ、防御地区・居館地区などで構成されました。この曲輪の構成は、その時代・築城場所・地形などにより異なります。

 

 山城の場合は、山や谷の複雑な地形を利用して、何段もの曲輪を配置して強固な防御陣地がつくられました。 平城の曲輪は、外堀、内堀、三の丸、二の丸、本丸(天守丸)などで構成されています。

金沢城内堀 左側が三の丸
金沢城内堀 左側が三の丸

 敵軍との戦いでは、城外に出て戦う場合と籠城して戦う場合がありました。敵軍に圧された場合、戦いながら外堀から本丸まで徐々に引いてゆく城の造りになっています。城主の最後の場所は、本丸の「切腹の間」でした。「切腹の間」は、床下に石などをびっしり敷き詰めて外部から忍者などにも侵入されないような構造で、確実に自刃できるようになっていました。また、落ち延びるための城外につながる秘密の抜け穴もありました。大阪城に抜け穴があったとか、大阪の陣で、真田幸村が善戦した真田丸にある抜け穴は大阪城につながっていると言われています。

 

 城主は、最後に自刃する場合と、城に火を放ち準備しておいた次の策に移る場合がありました。鎌倉時代末期、楠木正成公は、河内国の上赤坂城や金剛山中腹に山城、千早城を築きました。そして、幕府の大軍の包囲の中、天然の要害を活かし様々な戦術を用いて、百日以上善戦して、金剛山に反幕府の旗を挙げ続けた話は有名です。

 

 平和が長く続いた平成の現代、上記のように、最後のことまで考える武将の心掛けや対策をもつ人は少なくなっているように思います。世界が大きく変化している今日、読めないリスクに対応するため、戦国時代の武将の考え方や行動を振り返ってみる必要があります。

 

 話変わって、大東亜戦争の推移を見ると、日本の防衛の考えと対策の脆弱さが目立ちます。同戦争では、航空機が兵器として重要な役割を果たしました。米国の戦略爆撃部隊は、2年半の間に9万トンの爆弾をドイツの航空機生産基地に投下して、やっと壊滅状態に追い込むことができました。ドイツは、空爆のリスクを想定していました。航空機産業、部品生産は国内各地に分散され、工場は森林の中にも建てられ、それぞれ独立して活動できるように構成され防空壕ももっていたのです。

 

 それに対して、日本は、1年と1か月の間に1万6千トンの爆弾が米軍から投下されて、航空機生産能力が壊滅状態になったのです。ドイツに投下された爆弾の20%以下でした。当時の日本の航空機産業においては、全生産の72%が、東京、大阪、名古屋の3都市とその近郊に集中しており、分散や防備があまりできていなかったことが原因です。ドイツのようなヨーロッパの地続きの国と、日本のような島国の歴史的背景には大きな違いがあることも事実です。しかし、爆撃される可能性を想定せず防備しなかったことを認識する必要があります。

 

 ドイツにBMWという車メーカーがあります。第2次世界大戦時、BMWは航空機エンジンも製造していました。連合軍の爆撃と偵察機の目を逃れるため、ミュンヘンのBMWの製造施設は、郊外に立ち並ぶ家並みに似せて屋根を塗装し、周りには瀟洒な庭園や木立ちまで作っていました。そしてBMWはジェットエンジンの開発とテストもやっていました。終戦後、連合軍はマクデブルグの町に近い鉱山に隠されていたBMW003ジェットエンジンを発見したのです。それは、連合軍が初めて目にするものでした。                         「BMW物語より」

 

 先の東日本大震災では、効率を重視して生産を集中していた日本の製造業の脆さが露呈しました。今後、予想しないことが起こることを想定し、それに対応できる頑丈な仕組みを構築しておく必要があります。これからの日本は、戦国時代の武将の心掛けや防備の考え方を見習い、さらに、ドイツ流のしぶとく残るための考えや対策を学ぶことが大事でしょう。

 日本はこれまで効率を最優先で追求してきました。しかし、これからは、大局に立って読めないリスクに対応しておくことが急務です。さらに、大事なことは、紛争を未然に防ぐための平時の不断の努力にあると思います。 

 

                                         葉村 彰吾