新府城
新府城は、武田氏の歴史の最後に登場する城である。
新府城は、天正9年(1581年)武田勝頼が、家臣の真田昌幸に命じて築城したとされる。天正3年(1575年)長篠の戦いで武田勝頼軍が織田・徳川連合軍に敗北した後、武田領地である駿河、信濃、甲斐、上野には、織田・徳川連合軍と北条軍が侵入した。勝頼は、領国支配の強化と、織田軍の甲斐への侵入を防ぐために、新府城を築城したのである。
新府城は、甲府盆地西部に位置し、七里岩台地の自然の要害を活かして周囲に土塁を巡らせた平山城である(石垣は使われていない)。西側は七里岩台地の崖で東には塩川が流れ、七里岩突端部の南北7-8km、東西2kmの自然の地形を活かして構築されている。本城は南側の東と西の三ノ丸、西側の二ノ丸、本丸で構成され、南北600m、東西550m、外堀と本丸との標高差80m、高さ2.5mの土塁を巡らしている。
新府城には甲州流築城術が凝縮されている。後に、徳川と北条がこの地の覇権を争った際、徳川家康はこの城を修復して本陣とし、数倍の兵力の北条氏直を翻弄して戦を有利に戦ったとされている。
昭和48年(1973年)「新府城跡」として国の史跡に指定された。
新府城にまつわる歴史
天正10年(1582年)勝頼は、信濃での外戚の木曾義昌の謀反を抑えるため、諏訪へ出兵するが、織田・徳川の連合軍に阻まれ甲斐国へ戻った。勝頼の弟・仁科盛信が守る高遠城も陥落し、武田内部には、武田家の衰退をみて敵方に寝返る者も出た。
3月初め、勝頼は新府城において、真田昌幸の岩櫃城(群馬県吾妻郡)に逃げるか、小山田信茂の岩殿城(大月市)に逃げるか軍議を開いた。昌幸は要害である岩櫃城行きを勧めたが、信茂が岩櫃城までは遠路に加えて雪が深いことを理由に岩殿城行きを主張した(新府城から岩櫃城までは、北に直線約95kmで遠く山深い。新府城から岩殿城までは、東に直線約45km)。勝頼は、最終的に、信茂が支配する岩殿城行きを決意し、構築中の新府城に火を放ったのである。
そして、勝頼とその嫡男の信勝一行は岩殿城を目前にした笹子峠(大月市)で信茂の裏切りに会い、衆寡敵せず、勝頼、信勝父子は天目山(甲州市大和町)にて自害したとされている。
歴史に「もし...」はないが、
1.勝頼が、長篠の戦いにおいて、撤退を進言した信玄以来の重鎮の意見を聞き、信長のように「世間がなんといおうと無視して、困難なときにはさっさと退き、まもなく再び出て勝利する」ような行動をとっていたならば...
2.後に、上田合戦で2度にわたって少数の真田軍で徳川の大軍を撃退して徳川家康を大いに恐れさせる真田昌幸の「岩櫃城へ逃げる策」をとっていたならば...
どうなっただろうかと考えてしまう。