明石城
明石城の始まりは、元和4年(1618年)徳川二代将軍秀忠が、西国諸藩に対する備えとして、明石藩主小笠原忠真に新城の築城を命じたところに始まる。明石の地は、山陽道が通り、北には丹波国、但馬国への道が分かれ、淡路島、四国への道もあり、古来より交通の要衝であった。
明石城は、傍に大きな池をもつ人丸山が防備に役立つとして、現在の地に築城された。明石城は、三木城、高砂城、枝吉城、船上城の木材を利用し、坤櫓(ひつじさるさぐら)には伏見城のもの、巽櫓(たつみやぐら)には船上城のものが使われたと伝えられている。
明石初代藩主小笠原忠真は、元和4年(1618年)姫路にいた宮本武蔵を客分として明石へ招いた。そして武蔵は、明石城の築城が元和5年(1619年)に始まると、城下町の町割り(都市計画)にたずさわった。(地誌「明石記」・「播磨鑑」による)。城下町の町並みは裏行16間(29m)に定め、その規模は京口門から姫路口門までの東西が1274間1尺(約2.3km)で山陽道を城下町にとり入れ、外堀(現在の2号線)によって武家屋敷と町人の町とを分けた近世初期の代表的な城下町であった。