松山城
慶長7年(1602年)伊予国正木城城主10万石の大名であった加藤嘉明が、関ケ原の戦いでの戦功により20万石に加増された。松山城の歴史は、加藤嘉明が標高132mの城山(勝山)に本丸をもち麓に二之丸と三之丸を有する平山城の築城に着手したところから始まる。慶長8年(1603年)加藤嘉明がこの地を「松山」と呼ぶこととし「松山」という地名が公式に誕生した。
松山城築城の際、山麓の内堀のところが深い淵になっていて、そこに「金色の亀」が棲んでいたと言われており、その伝承にちなんで「金亀城」と呼ばれるようになった。
松山城は、津山城、姫路城とともに日本三大平山城の1つに数えられている。平山城とは平地にある山や丘陵に築城された城のことを指す。
松山城は、山頂に本丸、南西麓に二之丸、続いて三之丸、北麓には北曲輪、南東麓に東曲輪をもつ。三之丸は比高6mほどの土塁で囲まれ、北と東に石垣の虎口がある。本丸から二之丸にかけては登り石垣が築かれた。石垣には花崗岩が使われ、慶長期に築かれたと推定される穴太衆積みが多くみられる。