松江城
松江城は、慶長12年(1607年)二代藩主横尾忠晴とその祖父吉晴により、宍道湖畔の亀田山に築城したのが始まりである。その後、寛永11年(1634年)京極忠高が若狭国小浜藩より隠岐・出雲両国26万石で入封し、三の丸を造営し全容が出来上がった。石垣を見ると、慶長期の穴太衆積みや寛永期以降に発達した間知石積みの高石垣と思われる石垣などが見られる。
慶長5年(1600年)関ケ原の戦いで戦功のあった横尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、隠岐・出雲24万石を得て、月山富田城に入城し松江藩が成立した。しかし月山富田城は、中世山城であり近世城下町形成には向かなかったので、交通・運送などに便利な宍道湖と中海を結ぶ太田川の近くの末次城址を城地に選定した。
(末次城は、鎌倉時代に佐々木(末次)胤清により築城され、戦国時代中期に毛利氏の侵攻を受けて落城したとされている。)
松江城は、宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれ、南に流れる京橋川を外堀とする輪郭連郭複合式平山城である。城の周りを囲む堀川は宍道湖とつながっており、薄い塩水である。構造は、本丸を中心に据え、東に中郭、北に北出丸、西に後郭、東から南にかけ外郭、西から南にかけ二の丸が囲む。二の丸の南には一段低く三の丸が配されている。軟弱地盤の上に建てられたため、建築から数十年ほどで傾きだしたと言われる。
亀田山は北の奥谷方面から続く丘陵の南端にあたり、現在松江高校のある赤山との間には宇賀山と呼ばれる丘陵があった。本丸北側の内堀開削は宇賀山を開削する大工事となり、大量に出た土砂は城下の整備に利用された。
松江城址は国の史跡に指定されている。
松江城は日本三大湖城の一つである。日本三大湖城とは、宍道湖を利用した松江城、琵琶湖を利用した膳所城、諏訪湖を利用した高島城の3つである。
現代の松江城の地図
太鼓櫓
二の丸より見る太鼓櫓
太鼓櫓から見る天守
三の丸下の段から見る石垣
武具櫓1
祈祷櫓周辺下から見る天守
三の丸の段から見る本丸
天守
天守南東側の石垣
天守と北側の石垣
馬洗池近くの石垣
本丸西側の二段石垣
南櫓と中櫓
南櫓
櫓と天守と石垣