浜松城
浜松城の場所は、瀬名姫の先祖である今川貞相が曳馬城(引馬城)を築城したところとされている。瀬名姫は今川義元の姪にあたる今川一門であり、弘治3年(1557年)1月、元服して松平元信と名乗っていた徳川家康に嫁いだ。
桶狭間の戦いで今川義元が没すると、今川氏の衰退が始まる。元亀元年(1570年)家康は、武田信玄の侵攻に備えるため、本拠地を三河国岡崎から遠江国曳馬へ移し曳馬城を拡張した。その際、曳馬という名称が「馬を引く」すなわち敗北につながり縁起が悪いことから、かつてこの地にあった荘園「浜松荘」に因んで地名を「浜松」にしたとされる。
元亀3年(1573年)家康は武田信玄の挑発を受け、浜松城から撃って出て大敗北を喫した(三方ケ原の戦い)。天正10年(1582年)頃、浜松城の拡張・改修は完了したが、その4年後、家康は本拠地を浜松から駿府に移した。
浜松城は、家康が29歳から45歳までの17年間、今川・武田・織田などの強大な戦国大名に囲まれた中で戦い、生き延びて天下盗りの夢をつかんだ城とされている。歴代の浜松城主が徳川幕府の重役に出世した例が多いことから出世城と呼ばれたとされる(例外もある)。
浜松城は、静岡県浜松市中区にある平山城であり、野面積の石垣が有名である。石垣の表面には隙間があるが、奥が深く内側に小石などが詰められており堅固な構造となっている。浜松市内の大草山、根本山、湖西市知波田産の硅岩が浜名湖や佐鳴湖などの水路を使って運ばれ石垣となったとされる。その石垣の積み方には、横長の石を水平に積む布積み崩しのような形が多く見られ、基本的なところは西国の野面積と似ている。