湯築城
湯築城の場所はもと伊佐庭岡と呼ばれ、今から千三百年ほど前聖徳太子が鶴 駕を停め道後温泉碑を建てられたところである。
湯築城は、中世の伊予国の守護であった河野氏が、南北朝から戦国期(14世紀後半~16世紀末)まで約250年間にわたって居城としていた。
源平合戦(1180~1185年)河野通信が源氏方として功績をあげ鎌倉幕府の有力御家人となり伊予国の統率権を得た。弘安の役(1281年)では河野通有が博多湾で防塁の前に出て元軍と勇敢に戦ったことが知られている。
湯築城は、建武2年(1335年)頃、伊予国の守護であった河野通盛の代に築城された。天文4年(1535年)頃、河野道直が外堀を築き、村上水軍との関係を強化した。
天正9年(1581年)四国制圧を狙う土佐国の長曾我部元親が伊予国に侵入し、河野通直が長宗我部元親と戦った。天正13年(1585年)四国征伐を目指す羽柴秀吉の命を受けて小早川隆景らの軍が侵入し、湯築城の河野氏は約1か月間の籠城後湯築城を明け渡した。
慶長7年(1602年)加藤嘉明が松山城を築くにあたり、湯築城の礎石を勝山(松山城)に運び去った後、湯築城は全くの廃墟となった。明治11年(1878年)時の愛媛県はこの地を公園とし景観を整え植樹した。
鎌倉時代に時宗を開き衆生済度に尽くした一遍上人は、河野通信の孫にあたる。
湯築城は14世紀後半の築城当初は、中央の丘陵部を利用した山城であったが、200年後の16世紀後半には、周囲に外堀を築き、二重の堀と二重の土塁を巡らせた平山城になったものと推定される。湯築城の山頂部の標高は71m、比高31m、規模は南北約350m、東西約300m、面積約8.6Haとなっている。
外堀土塁は、外堀を掘った土を盛り上げて造られた土の土手で、かっては城全体を取り囲むように築かれていた。湯築城の外堀土塁は、断面が台形状をなし、規模は基底幅約20m、高さ約5m、総延長約900mと推察される。この築造には約300人で掘っても6か月程度かかる量に土が使われていたと推定される。