百済寺城(ひゃくさいじじょう)と百済寺(ひゃくさいじ)
百済寺城
近江源氏佐々木六角氏は、鎌倉時代より守護として南近江一帯を支配していた。佐々木六角氏は、自主防衛のため、観音正寺と百済寺を石垣で城塞化するとともに鯰江城などの出城を築いた。
「信長公記」によれば、武田信玄の死を知った信長は、六角氏討伐のため近江へ軍を進め、天正元年(1573年)4月7日に百済寺城に入城し、11日に百済寺を焼討ちした。そして、信長軍は百済寺の三百坊の石垣や石仏を引き抜いて安土へ運んだ。安土城の礎石の多くは、信長の軍勢が運んだ百済寺の石(湖東流紋岩)と考えられている。百済寺城の偉容が石垣遺構群から偲ばれる。
百済寺
百済寺は、推古天皇の御代 法興元年(590年)に、聖徳太子の御願により百済人のために創建されたと伝えられている。百済寺は、近江最古の寺院の1つとされる古刹である。鎌倉時代から室町時代にかけて、堂や坊舎等の建立が相次ぎ、そのふもとには百済寺の村々が栄えた。その後、度々の火災や兵火のために再建を繰り返したが、織田信長の「百済寺の焼討ち」後の再建は困難を極めた。
天正12年(1584年)堀秀政により仮本堂が建てられ、寛永14年(1637年)には明正天皇より改建の勅許を得た。そして、土井利勝・酒井忠勝・栄勝院局・春日局などからの喜捨を得て、慶安3年(1650年)、本堂・仁王門・山門等が竣工した。これが現在の建物である。百済寺は湖東三山の1つとして知られている。