石垣山一夜城
天正18年(1590年)豊臣秀吉は小田原北条氏を攻め、水陸15万人とも言われている大軍を率いて小田原城を包囲した。そして本営として、小田原城の西方にある笠懸山(かさがけやま)に、総石垣の陣城を構築した。
包囲戦の場合、攻撃軍が攻めるに都合のよい場所に築城する本営が陣城と呼ばれる。豊臣秀吉は朝鮮出兵の際には肥前(佐賀県)に名護屋城を、備中(岡山県)高松城攻めでは竜王山を、陣城として築いている。
笠懸山に陣城を構築するにあたり、山頂の林の中に堀や櫓の骨組みをつくり白紙を貼って白壁のように見せかけ、周囲の樹木を伐採して一夜のうちに城ができたように見せかけたことから、後に石垣山一夜城と呼ばれるようになった。
実際には、天正18年(1590年)4月から6月まで約80日間、延べ4万人が動員されて石垣山一夜城が築かれたとされている。秀吉は、この陣城に千利休や能役者を招いて茶会を開き、そして天皇の勅使を迎えた。
石垣山一夜城は、小田原城の西3kmのところにある笠懸山の山頂に築かれた。本丸は標高257m、面積7,500平方mで最も大きな曲輪であり、眺望は四方に開け、東北隅からは小田原城下、足柄平野、丹沢山系、さらに相模湾から三浦半島、房総半島まで一望できる。石垣山一夜城は、本丸の他に、二の丸、井戸曲輪、西曲輪、南曲輪などを有する本格的な近世城郭であった。
この城の石垣は、近江の穴太衆による野面積みである。築城後400年以上経った現在まで崩落せず残っているところがあり、当時の面影をしのぶことができる。