観音寺城
観音寺城は滋賀県近江八幡市安土町にあった山城である。南北朝(1334年~1392年)の争乱の頃、観音寺城の場所に六角氏が城砦を築き始めたと記録されている。(この時期の遺構は見つかっていない)
観音寺城は、応仁の乱(1467年~)以降、城郭として本格的に整備され、大永5年(1525年)六角定頼による江北出陣の際には、城に留守居役をおくほど整備されていたようである。
天文元年(1532年)12代足利義春将軍を観音寺城に迎えていることから、居住性の高い城郭ができていたと推定される。天文年間(1532年~1550年)には城下町が栄え石寺楽市(*)が開かれた。天文19年(1550年)頃には、鉄砲による戦闘形態の変化に対応して石垣が整備され、今日見られる城構えとなった。
(*)楽市とは、取引を非課税として自由な売買を可能にした市のことである。
永禄11年(1568年)織田信長が上洛すると、近江守護であった六角義賢/承禎(六角定頼の子)は、三好三人衆と通じて織田軍と戦った。しかし観音寺城の戦いで敗北し、観音寺城から南部の甲賀郡に本拠を移した。これにより観音寺城の歴史に幕が下ろされた。
観音寺城は、標高433m、南北に伸びる繖山(きぬがさやま:中腹に桑實寺がある)の山上に築かれた山城である。南側斜面に曲輪を構築し家臣や国人領主の屋敷を配した。本丸の標高は395m,面積2000平方mである。大きな曲輪として、平井丸 標高375m 面積1700平方m、池田丸 標高365m
面積2700平方mなどがあった。観音寺城全体で、名前が残っているだけでも十数個、その他多くの曲輪があり、それらの多くが石垣で囲まれた日本国内有数の大規模な山城であったと考えられる。