郡山城
郡山城は、秋篠川と富雄川の中間に突き出た西京丘陵南端上に位置する。その始まりは、10世紀後半、この地に郡山衆が築いた雁陣之城とされる。当時の城は盛り土と柵をめぐらせただけのものであった。
天正7年(1579年)8月筒井順慶が郡山城を本城とする改修を開始し、天正11年(1583年)4月に天守が完成した。天正9年(1581年)明智光秀が普請目付として大規模な近世城郭への工事を進めた。
天正13年(1585年)豊臣秀吉の弟の豊臣秀長が、大和国・和泉国・紀伊国3か国100万石余の領主として郡山城に入った。そして、100万石の居城に相応しい城郭や城下町の整備を進めた。
郡山城には、本丸、毘沙門曲輪、麒麟曲輪、玄武曲輪などの曲輪が多く普請された。郡山城が大規模になった理由として、豊臣秀長の居城として以外に、大阪城の防衛の城として重要であったことがあげられる。豊臣時代後期に、五奉行の一人増田長盛が22万3千石の領主として入城し総縄張りが完成した。
以後、水野、松平、本多、柳沢氏が領主となり、柳沢氏時代には、外堀総延長が五十町十三間(約5.5km)の城郭となった。