金剛輪寺
松峰山金剛輪寺は、聖武天皇の勅願により天平13年(741年)に行基が開山されたとされる。以来、天下泰平の祈祷寺として栄え学問僧が多く集まり、嘉祥年間(850年)には延暦寺の慈覚大使が来山し天台の大寺となった。
応仁の乱後は、佐々木六角氏や京極氏が時々宿陣し、戦時には兵糧米、軍資金を強請される事が度重なったため、金剛輪寺として弓矢をもち自衛した。山中の城山と呼ばれるところは衆徒の砦であった場所である。
天正元年(1573年)信長は、百済寺が鯰江城を支援したことで、同寺を焼き払った際、金剛輪寺も同罪として火を放った。しかし、僧侶の奇知により、本堂、三重塔、二天門などは火災を免れた。
それ以前の寿永2年(1183年)には源義経が義仲追討のため近江に来て、金剛輪寺に参籠十数日、武運必勝を祈願して太刀を寄進した。
文永弘安の役(文永11年(1274年)、弘安4年(1281年))には、鎌倉の北条時宗が佐々木頼綱に命じて近江国中の祈祷神社に元軍降伏の祈祷を修せしめた。金剛輪寺長老覚賢は衆僧をはげまし大祈祷を修せしめたところ、元軍が大敗し時宗は凱歌を挙げ、日本国はじめて安堵したとされる。
金剛輪寺は、古より今に国家安泰、万民豊楽を祈る道場となっている。大悲閣本堂は国宝であり、金剛輪寺は湖東三山の1つとして知られている。