金沢城
天文15年(1546年)浄土真宗の寺院である「尾山御坊」が、犀川と浅野川に挟まれた小立野台地(標高60m)に石垣を廻らせた拠点(後の北陸の一向一揆)を構築したところから、金沢城の歴史は始まる。
天正11年(1583年)前田利家が、石川・河北両郡を豊臣秀吉より拝領し金沢城に入り、その基礎が築かれる。前田家は、加賀・能登・越中の3カ国・約120万石を領有した最大の大名であり、前田家14代まで約290年間続いた。
その長い歴史により、金沢城の石垣は、1.保存状態がよい、2.石垣構築や改修を記載した文書がよく残っている、3.文禄・慶長期以来、江戸を通して改修された石垣には、近世の様々な石垣技術が残っている、などの特徴をもっている。
金沢城を訪れると、その様々な石垣の技術を目にすることができる。近江国坂本が発祥とされる穴太衆が、石積み技術を幕府や諸藩に伝え、城郭の石垣などをつくる専門集団として活躍した。その専門技術者は、加賀藩や熊本藩などでは、「穴生役」「穴生の方」などの職名で呼ばれていた。
【石垣一口メモ】
野面(のづら)積み
自然の石や粗割りしただけの石を積む方法。山城などに多い
打ち込みハギ
形の整った割石を積む方法。郭の外周などに見られる
切り込みハギ
割石をさらに加工した切石を隙間なく積む方法。出入口などに見られる