長篠城
戦国時代の長篠城をめぐる戦いは、前の「長篠城の攻防」と後ろの「設楽原の戦い」の2つに大きく分けられる。この地域は、戦国時代、武田軍と徳川軍が城を奪い合った境目に位置する。当時の武田氏・徳川氏の領地の石高は、それぞれ133万石、48万石。織田氏の石高は405万石で覇権を争っていた。
長篠城は、永正5年(1508年)今川氏の将、菅沼元成が築城。(これより長篠菅沼氏と呼ばれる)元成とその子孫である長篠菅沼氏が居城とした。そして今川氏滅亡後、松平元康(後の徳川家康)に属するようになった。元亀2年(1571年)武田信玄による三河侵攻の中で、長篠城は攻められ陥落を免れたが、武田信玄に属するようになった。元亀4年(1573年)武田信玄が三河に侵入したが、信玄の病状悪化により武田軍は後退した。
その間隙に、長篠城は徳川家康に攻められた。天正元年(1573年)城主 菅沼正貞定は徳川内応の疑いで信州小諸に入牢となり、長篠城の山家三方衆の1つである奥平氏は武田氏より離脱し、徳川氏へ走った。天正3年(1575年)2月家康は奥平貞昌を城主に任命し城郭を整備した。
天正3年5月信玄の跡を継ぐことになった武田勝頼が、1万5千の兵を率いて、奥平貞昌以下約5百の兵が守る長篠城を囲み、5月8日から「長篠城の攻防」が始まった。長篠城の兵はよく戦ったが、守りに限度があるため、貞昌は救援の使者として鳥居強右衛門を選び、家康の居城のある岡崎(浜松城)に向かわせた。
鳥居強右衛門は武田軍の囲みからうまく抜け出すことに成功し、約60km離れた岡崎に辿り着き、家康に救援を要請した。家康は、かねてからの約束通り、織田信長の助けを借りて、5月17日設楽原に出陣し、長篠城救援の構えを見せたのであった。
長篠の地は、豊川をさかのぼること約25km、長野県・静岡県北部に通じる道中にあり、この辺りから平地は山に形を変えていく。長篠城の西側は豊川本流(寒狭川)、南側は宇連川が合流する地点 50mの断崖上にあり、平地への面は水堀と土塁で、さらに外郭は柵や塀で囲まれていた。長篠城は、本丸・帯郭・野牛郭・巴城郭・弾正郭・家老屋敷などで構成されていた。